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【馬子】聖徳太子邸宅あと?発見【明日香村】
1
名前:
名無しさん
2004/03/12 16:37
ID:nqf9xfrC
「島大臣」蘇我馬子の邸宅跡か 奈良・明日香村島庄遺跡
柱跡に白線が引かれた島庄遺跡の大型建物跡(手前)。ここを邸宅に使ったとみられる蘇我馬子の墓が右奥に見える石舞台古墳
柱跡に白線が引かれた島庄遺跡の大型建物跡(手前)。ここを邸宅に使ったとみられる蘇我馬子の墓が右奥に見える石舞台古墳=奈良県明日香村で、本社ヘリから
蘇我馬子が住んだ邸宅とみられる大型建物跡群
蘇我馬子が住んだ邸宅とみられる大型建物跡群=奈良県明日香村で
蘇我馬子(そがの・うまこ)の墓とされる奈良県明日香村の石舞台古墳の西隣にある島庄(しまの・しょう)遺跡で、飛鳥時代の大型建物跡群が見つかったと11日、同村教委が発表した。7世紀前期、中期、後期の三つの時代の建物跡があり、このうち前期の建物跡が、その規模から日本書紀に度々登場する馬子の邸宅跡の可能性が高いという。30年来の調査で馬子ゆかりの人工池「勾(まがり)の池」跡が近くで見つかっており、その池との配置が「馬子邸宅説」の根拠になった。
県立橿原考古学研究所の調査を引き継ぎ、明日香村が文化財の保存・活用を目的に昨年11月から3年計画で調査に着手した。
島庄遺跡は飛鳥川沿いにあり、今回の調査地約500平方メートルは小学校の跡地。大小9棟以上の掘っ立て柱建物跡が重なって出土した。
このうち最大の建物跡は柱の直径が約40センチ、縦に4本、横に6本以上が2.4メートル間隔で並び、床面積は94平方メートル以上ある。建物の並びが、72年に出土した北約40メートルにある勾の池跡(1辺約40メートルの方形)と平行とわかった。
日本書紀は、626年に亡くなった馬子を「飛鳥川のほとりに家を建て、庭に小さな島のある池を造る。人々は島大臣と呼んだ」と紹介する。研究者らは「島のある池」は勾の池で、今回の大型建物跡は、出土した土器などから7世紀前期の馬子邸との見方を強める。
また、調査区域にある7世紀後期の3棟の建物跡は、日本書紀に登場する天武天皇の皇太子・草壁皇子が住んだ離宮「島宮(しまのみや)」の可能性が高い。南北4.5メートル、東西12メートル以上の大きさで、672年に天武天皇が造営した飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)の宮殿跡(飛鳥京跡)と平行な並びだった。
研究者は、大化改新(645年)で滅亡した蘇我氏の邸宅跡に、中大兄皇子(天智天皇)やその弟の天武天皇が新たに離宮を築き、草壁皇子も使ったと推測している。
現地説明会は13日午前10時から午後3時まで(小雨決行)。
◇
<和田萃(あつむ)・京都教育大教授(古代史)の話> 7世紀前期の建物は当時の宮殿に匹敵する規模で、馬子の権力の強大さを示す邸宅とみていいだろう。馬子邸は大化改新で王宮領として没収される。それが草壁皇子の島宮となり、今回見つかった7世紀後期の建物跡がこれにあたる。日本書紀に登場する島宮の記述とも年代が合致しており、間違いないだろう。
◇
<蘇我馬子(?〜626)> 敏達、用明、崇峻、推古の4代の朝廷で最高位の大臣(おおおみ)を54年にわたりつとめ、権勢をふるった。仏教の興隆に熱心で、排仏派のライバル物部氏を破り、日本最初の寺院、飛鳥寺を建立した。自ら擁立した崇峻天皇を暗殺して推古天皇を推すなど政権に深く介在。娘を聖徳太子(574〜622)の妃にするなど晩年まで権力を保った。没後、息子の蝦夷(えみし)も大臣になったが、孫の入鹿が大化改新で中大兄皇子らに殺され、蘇我氏は滅んだ。
(03/11 22:09)
http://www.asahi.com/culture/update/0311/012.html
2
名前:
名無しさん
2004/08/21 12:54
ID:4MCWuJd7
蘇我馬子邸跡に「柱穴3基」出土
飛鳥時代の大豪族、蘇我馬子(?―626年)の邸宅跡とみられる奈良県明日香村の島庄遺跡で、建物の一部と推定される柱穴3基が新たに出土したと、同村教委が20日、発表した。
柱穴は、直径約80センチ。2・4メートル間隔で1列に並び、それぞれ直径約20センチの柱を立てた痕跡があった。
出土したのは、今年3月の調査で出土した大型建物跡など3棟の北東約30メートルの場所。過去の発掘調査で確認されている方形池の約30メートル南にあたり、池の南側に多くの建物が広がっていたことが判明した。
千田稔・国際日本文化研究センター教授(歴史地理学)は「邸宅の前に池を配するのは、神仙思想に基づいたもので、中国の宮殿や平城宮でもみられる。仏教を信奉した馬子だが、神仙思想も邸宅づくりに採り入れたのだろう」と推測している。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040820-00000013-yom-soci
3
名前:
名無しさん
2005/01/26 23:51
ID:dlQvvsaZ
水田の下から大古墳群=有力豪族・和珥氏の墓域か−奈良
奈良県立橿原考古学研究所は26日、同県天理市和爾町で、古墳時代後期(6世紀後半〜7世紀前半)の円墳計29基を見つけたと発表した。墳丘は直径10〜25メートルで、いずれも削り取られて水田になっていた。周囲にはまだ発見されていない古墳も多数あるとみられ、合わせれば350〜500基ある全国有数規模の古墳群の可能性が高いと、同研究所はみている。
古墳群一帯は、6世紀後半まで大王(天皇)家に妃を出した有力豪族の和珥氏の本拠地とされていて、同研究所は「和珥氏の墓域だったのではないか」と話している。
(時事通信) - 1月26日18時0分更新
4
名前:
名無しさん
2005/02/23 22:17
ID:QksJ8xWl
飛鳥時代の廃寺からレリーフ状の仏像出土…奈良
奈良県御所市の寺院跡、二光寺(にこうじ)廃寺で、7世紀後半の粘土を焼いたレリーフ状の仏像「セン仏(せんぶつ)」の破片約200点が出土したと、県立橿原考古学研究所が23日、発表した。異国風の顔立ちをくっきりと刻んだものもあり、国際色豊かな白鳳美術を象徴する発見として注目される。
異国風の人物を刻んだセン仏の破片は、復元すると55センチ四方に達する大型のもの。中央にあったとみられる阿弥陀如来(あみだにょらい)を守る神将5体が刻まれ、端の跳ね上がった口ひげ、出っ張ったほお骨、太い鼻と大きな耳など、エキゾチックな顔立ちが確認できる。694年を示す「甲午」の文字が刻まれた破片もあり、このころ制作されたものとみられる。
肥田路美(ひだ・ろみ)・早稲田大教授(東洋美術史)は「顔つきはインド風に見えるが、唐や新羅の影響も感じられる。国際的な要素がぎっしり詰まっており、渡来系技術者が作ったのだろう」と推測している。(センは土ヘンに「専」の旧字体)
(読売新聞) - 2月23日20時54分更新
5
名前:
名無しさん
2005/11/14 04:43
ID:QkhDMUed
蘇我入鹿邸跡?出土、日本書紀の記述と一致
蘇我入鹿の邸宅の可能性が高い建物跡が出土した甘樫丘東麓遺跡(奈良県明日香村川原で)
奈良県明日香村川原の甘樫丘東麓(あまかしのおかとうろく)遺跡で、7世紀の掘っ立て柱建物跡5棟が出土したと、奈良文化財研究所が13日、発表した。
研究者らは、大化の改新(645年)で暗殺された飛鳥時代の大豪族、蘇我入鹿(いるか)の邸宅「谷(はざま)の宮門(みかど)」の可能性が高いとみている。建物が甘樫丘に入り込んだ谷を大規模に造成して建てられ、焼けた壁土なども見つかったことが、「日本書紀」の記述と一致した。古代の豪族支配を象徴する蘇我氏と、国家の大改革を導いた大化の改新の実像に迫る一級の資料として注目されそうだ。
現場は甘樫丘の東麓で、入鹿暗殺の舞台となった飛鳥京跡の北西約600メートルの地点。蘇我氏が建立した日本最古の寺、飛鳥寺からは南西に約600メートルの位置にあたる。背後の尾根を登れば、入鹿が殺害された飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)をはじめとする歴代天皇(大王)の宮殿が造られた飛鳥京跡が眼下に広がる。
同研究所が約730平方メートルを発掘したところ、建物5棟分の柱穴と長さ12メートル以上の塀の跡が見つかった。うち1棟は幅10・5メートル、奥行き3・6メートルの規模で、直径20〜30センチの柱穴が並んでいた。柱筋に沿った溝(深さ20〜30センチ、幅80センチ)には、7世紀前半の土器や、焼けた壁土や炭が埋まっていた。
これらの建物は倉庫などとみられ、母屋にあたる主要な建物は、さらに東側にあると予想される。現場のすぐ南の斜面でも1994年の調査で、焼けた壁土や建築部材、土器が出土していた。
「日本書紀」には、644年11月に「蘇我大臣蝦夷(おおおみえみし)と、子の入鹿は家を甘樫丘に並べ建てる。大臣の家は上の宮門、入鹿の家は谷の宮門という」という記述があり、翌645年6月に入鹿が暗殺された翌日、蝦夷が自邸と入鹿邸に火を放って自害したと書かれている。
研究者の中には「主要な建物が見つかるまで断定できない」との慎重意見もあるが、同研究所は、周辺に母屋や「上の宮門」などがあると推定しており、来年度以降も調査を続ける。
現地見学会は16日午前10時〜午後3時。
和田萃(あつむ)京都教育大教授(古代史)の話「大化の改新は強大な権力を持っていた蘇我氏が滅び、天皇家が律令体制を固める契機となった古代国家最大の政争。その舞台の一つが発見されたのは、歴史の解明に結びつく非常に重要な成果だ」
(読売新聞) - 11月14日3時7分更新
6
名前:
名無しさん
2005/11/14 04:44
ID:QkhDMUed
<甘樫丘東麓遺跡>蘇我氏の本拠、発見期待 武器庫や正殿は
蘇我氏の邸宅があったと日本書紀が記す甘樫丘(奈良県明日香村)のふもとの谷で、7世紀代の造成地と建物跡が見つかった。7世紀前半、天皇をもしのぐ権勢を誇ったとされる蘇我蝦夷(えみし)の「上の宮門(みかど)」や入鹿(いるか)の「谷(はさま)の宮門」が出現する期待が高まった。息子たちを「王子(みこ)」と呼ばせるほどに力をふるった蘇我氏の本拠は姿を見せるのか。
蘇我氏は536年、稲目(いなめ)が大臣に起用されたのを機に歴史の表舞台に登場し、天皇の外戚(がいせき)として勢力基盤を拡大した。次の馬子は甘樫丘から南東に約1.5キロ離れた石舞台古墳の近くに邸宅を構えたとみられ、昨春と今夏の調査で、大型の掘っ立て柱建物跡が見つかった島庄遺跡(奈良県明日香村島庄)が有力になっている。今回の調査地で確認された平たん地は7世紀前半に整地されたとみられ、馬子の次の蝦夷が644年に甘樫丘に邸宅を築いたことと合致する。
「甘樫丘は現代の東京・丸の内や六本木ヒルズ」と言うのは、万葉集を研究する上野誠・奈良大教授。「甘樫丘は万葉集で『明日香川行き廻(み)る岳(おか)』と表現され、飛鳥の要衝だった。その場所にいること自体が一流のステータスの証明だった。当時の勝ち組の象徴でもあった場所」と話す。
日本書紀に、蝦夷が天皇の特権とされた「八つら(やつら)の舞」を奉納したと記されるなど、権力の絶頂にあった蘇我氏の滅亡のドラマは、入鹿が今回の調査地の東約750メートルにあったとみられる飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で殺され、蝦夷が家宝に火を放ち、自害して幕を下ろす。建物跡付近には焼け跡もあった。
古代史ファンのパーソナリティーの浜村淳さんは「甘樫丘の邸宅から、飛鳥を一望して監視出来たのに、自分たちが殺されることは事前につかめなかった。思い上がりでしょう。権力はあっという間に崩壊する、そんなもろさも感じます」と語る。
今回の調査は、谷を埋め立てたとみられる約6000平方メートルのうちの8分の1程度と部分的で、見つかった建物跡は最大でも40平方メートル足らず。日本書紀には、家の外に城柵(きかき)を備え、武器庫を設けて、番兵を配置していたことが記されており、蘇我邸とすれば、こうした施設の跡や大規模な正殿が今後の調査で見つかるはずだ。山本忠尚・天理大教授(考古学)は「正殿は今回の現場のもう少し上にあるのではないか」と、邸宅が甘樫丘のさらに広い範囲に及んでいたと想定する。
猪熊兼勝・京都橘大教授(考古学)は蘇我邸跡には蘇我氏が編さんにかかわった国記や天皇記の一部が残っている可能性もあると指摘し、「日本書紀は蘇我氏を事実以上に悪く描いている。邸宅跡の調査は飛鳥を舞台とする古代史に別の角度から光を当てるはずだ」と期待を込める。
(毎日新聞
7
名前:
名無しさん
2006/11/20 20:59
ID:lYTbVuoF
平安時代の食生活記した木簡、奈良・西大寺跡から出土
奈良市の西大寺食堂(じきどう)院跡で見つかった井戸(約2・3メートル四方)から、寺での米や酒、野菜の出し入れなどを記した平安時代(10世紀)の木簡が出土したと、奈良文化財研究所が20日、発表した。禁制だったはずの酒をたしなむなど、当時の僧侶の食生活がうかがえる。
出土した木簡は約60点。このうち、「伊賀栗拾使食料」と記された木簡は、伊賀国(三重県)へクリ拾いに行く使者に、ご飯4合(0・6キロ)を出したとする記録で、弁当の支給伝票とみられる。カブラを洗って漬けた人に、ご飯6・6キロを与えたとする木簡もあった。
「醤漬(ひしおづけ)瓜六斗」と書かれたものや、僧侶らに酒を振る舞ったことを示す「浄酒二升」、「木瓜(きうり)」「茄子(なす)」と記され木簡もあった。
(読売新聞) - 11月20日20時47分更新
8
名前:
名無しさん
2007/02/02 02:52
ID:HOshDDAu
◇蘇我入鹿の邸宅跡に大規模石垣 豪壮さ示すシンボルか
古代史最大のクーデター「大化の改新」(645年)で中大兄皇子(後の天智天皇)らによって
暗殺された蘇我入鹿の邸宅跡とされる奈良県明日香村の甘樫丘東麓遺跡で、7世紀前半の
大規模な石垣や建物跡が見つかり1日、奈良文化財研究所が発表した。
石垣は大化の改新前後に一気に埋められたことも判明。入鹿邸が、石垣を巡らせた大規模な
邸宅だった可能性が高まっている。
一方、一昨年11月の発掘調査で出土した5棟の建物跡は、今回見つかった石垣を埋めた後に
築かれた可能性が浮上。入鹿邸より新しい別の建物との見方も出ているが、地層の年代が
定まらず、はっきり断定はできないという。
同研究所が調査したのは、一昨年11月に7世紀の建物群跡が出土した北側約900平方メートル。
石垣は北西から南東方向に長さ約15メートル、高さ約1メートル分が確認された。
丘を大規模に造成して直径20〜50センチ大の石を7、8段積み上げた精巧な構造で、さらに南側に
延びると想定されている。
石垣の東側では、建物跡(南北8メートル、東西3.8メートル)1棟と塀(長さ4.8メートル)。
西側にも倉庫とみられる建物跡(東西5.4メートル、南北9メートル)など2棟があり、石垣の周辺に
建物群が築かれていたという。
石垣や建物群跡は、7世紀半ばに再び大規模な造成によって埋められたことも分かった。
造成された整地層からは、建物跡4棟や大型の塀(長さ18メートル分)、段差のある特異な
石敷き広場(一辺約4メートル)も見つかった。
日本書紀には、石垣についての記述はないものの、同研究所は「石垣や建物跡が入鹿邸に
かかわる可能性があり、650年代までに埋められたようだ。
飛鳥時代の甘樫丘は、何度も造成されてさまざまな施設が築かれていることから、極めて重要な
場所だった」としている。
現地見学会は11日正午から午後4時。最寄りは近鉄・橿原神宮前駅か吉野線の岡寺駅。
画像:甘樫丘の蘇我入鹿邸で出土した大規模な石垣 =1日、奈良県明日香村(撮影・山田哲司)
ttp://www.sankei.co.jp/culture/bunka/070201/bnk070201001-1.JPG
9
名前:
名無しさん
2007/02/06 17:53
ID:8whP.n1g
【天武】飛鳥浄御原宮【持統】
飛鳥浄御原宮は南北800メートル=北端?の石組み溝を発見−奈良
2月6日17時31分配信 時事通信
奈良県立橿原考古学研究所は6日、同県明日香村で、天武、持統両天皇の都だった飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)(672〜694年)の北端とみられる7世紀後半の石組み溝を見つけたと発表した。これまで同宮の南端と東端とみられる溝が見つかっており、宮のすぐ西には飛鳥川が流れていることから、宮の南北は約800メートル、東西は最大約500メートルの規模と判明した。
飛鳥浄御原宮は、中国にならって造営した日本最初の本格的都城とされる藤原京(694〜710年)に先立つ都で、その構造を知る貴重な手掛かりとなる。
10
名前:
名無しさん
2007/03/03 05:03
ID:imMdwU7x
大阪・今城塚古墳 強まる継体天皇陵説
3月2日8時0分配信 産経新聞
真の継体(けいたい)天皇陵との説が有力な大阪府高槻市郡家新町の今城塚(いましろづか)古墳(6世紀前半)で、横穴式石室を支える巨大な石組み跡が見つかり、高槻市教育委員会が1日、発表した。宮内庁は継体天皇陵として大阪府茨木市の太田茶臼山古墳(5世紀後半)を指定しているが、今回の発見で大王クラスを埋葬する横穴式石室があったことが裏付けられ、今城塚の継体天皇陵説はさらに強くなった。
天皇陵は宮内庁が管理するため大規模な調査が行われておらず、天皇陵クラスの墳丘の内部構造が判明したのは初めて。出自や即位の経緯に謎が多く「征服王朝説」もある継体天皇の実態に迫る第一級の資料でもある。
石組み跡は東西17・7メートル、南北11メートル以上で、墳丘に埋め込まれていた。花崗(かこう)岩や河原石を高さ約80センチに積んで「コ」の字形の石垣を造り、中に石をぎっしりと詰めてあった。
今城塚古墳は中世に砦(とりで)として利用され、上層部が破壊されたため石室は残っていない。石組みは巨大な石室の地盤沈下を防ぐため築かれたとみられる。
最終更新:3月2日8時0分
11
名前:
名無しさん
2009/06/13 00:02
ID:qPE/XLwe
1 日出づる国のとら(09/05/12(火)13:23 ID:sKT9TBAt.)
日本建国の驚くべき史実
「応神天皇=昆支=倭王武=ヤマトタケル=八幡神=大国主命=スサノヲ、すべて同一人物
である」と著者は主張する。
日本で最大級の古墳といえば、仁徳陵(大阪府堺市堺区大仙町)。二番目に大きいのが仁徳陵
から東へ14キロメートルにある応神陵(大阪府羽曳野市誉田6丁目)。この二つの古墳に埋葬さ
れているのは兄弟であり、仁徳陵の被葬者は弟の余紀、応神陵に埋葬されているのが兄の昆支
である。二人は百済の蓋鹵王(即位455年〜没475年)の弟である。仁徳陵は全長486メートル、
応神陵はわずかに小さく全長425メートル。前方後円墳の形もほぼ同じで、築造年代も10年と違
わない。
一、二位と争う日本最大の古墳に、なぜ、百済から渡来した二人の王子が埋葬されているのか、
その秘密を解き明かしたのが本書である。
在野の古代史研究者の石渡信一郎の研究をうけて、加羅と百済から渡来した新旧二つの朝鮮
渡来集団による古代日本国家建国の驚くべき史実を明らかにする。
序章 本当にあったこと
第1章 五つの金石文
第2章 百済から渡来した王子昆支
第3章 倭の五王「讃・珍・済・興・武」
第4章 墨田八番鏡
第5章 隠された蘇我王朝
第6章 アマテラス誕生と「日本」
終章 終章 蘇我入鹿の「差別名」を考える。
古代朝・日関係史に関心のある人にとっては謎解きの喜びが味わえる。(林順治著、1800円+
税、河出書房新社、TEL 03・3404・1201)
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2009/06/0906j0511-00007.htm
12
名前:
名無しさん
2009/06/18 00:25
ID:HATzlHZH
001 名無しさん (2009/05/29(金) 09:57:49 ID:2RqGNpoM)
古墳時代の始まりとされる箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)が築造されたのは240〜260年という研究を
国立歴史民俗博物館(歴博、千葉県佐倉市)がまとめた。放射性炭素年代測定によるもので、250年ごろとされる
卑弥呼の死亡時期と重なる。畿内説と九州説とが対立している邪馬台国の所在地論争にも一石を投じることになりそうだ。
「魏志倭人伝」など中国の史書によると、卑弥呼は2世紀末〜3世紀初め、それまで戦乱を繰り返していた倭国(わこく)
(現在の日本)の国々が共通の女王として擁立。邪馬台国に都を構え、239年には中国・魏王朝に使者を送って皇帝から
「銅鏡百枚」など多くの品々を贈られたとされる。
全長280メートルの前方後円墳である箸墓は、最大でも110メートルだったそれ以前の墳丘墓とは規模が大きく違う。
強大な政治権力が誕生したことを物語り、時代の画期を示すものと考えられている。魏志倭人伝にある卑弥呼の墓と、箸墓の
後円部の大きさが近いことなどから、古くから箸墓を卑弥呼の墓とする考えがあった。
考古学では、少し前までは4世紀の築造と考えるのが主流だった。宮内庁指定の陵墓で本体の調査はできない。周囲で出土した
土器や他の古墳で見つかった鏡などを手がかりに研究が進み、3世紀後半と見る研究者が増え、卑弥呼との関連が注目される
ようになっていた。
http://www.asahi.com/culture/update/0528/TKY200905280355.html
歴博は全国の5千点を超す土器の付着物や年輪の年代を測定。その結果、箸墓の堀や堤からも出土し、箸墓が築造された時期の
土器と考えられている「布留(ふる)0式」が使われた期間を240〜260年に絞り込んだ。
13
名前:
あ
2010/09/01 09:30
ID:EUwEwW8p
歴博は全国の5千点を超す土器の付着物や年輪の年代を測定。その結果、箸墓の堀や堤からも出土し、箸墓が築造された時期の
土器と考えられている「布留(ふる)0式」が使われた期間を240〜260年に絞り込んだ。
14
名前:
名無しさん
2011/06/27 14:13
ID:ryk1OrsC
投稿日:2011/06/25(土) 10:40:58.67 ID:???0
★聖徳太子、頼朝、尊氏、西郷…歴史上の人物の肖像画はなぜ別人が多いのか
歴史好きはビックリだろう。
先週、織田信長の肖像画が描き直されていたことが話題になった。京都・大徳寺に伝
わる絵で、京都国立博物館が調べたところ、完成当初の華やかな色使いが地味な色に直
されていたことが判明。同館の担当者は「豊臣秀吉が絡んでいるのは間違いない」
「(秀吉は)自分が天下を取る過程で信長の存在が疎ましくなっていった。あまり目立
たせたくないという気持ちがあったのでは」と解説していた。
歴史上の人物の肖像画には謎が多い。描き直しだけでなく、モデルがまったく違う人
物というのもよく聞く話だ。
たとえば歴史教科書でもおなじみの源頼朝。京都・神護寺が所蔵する「伝源頼朝像」
は90年代に、モデルが足利直義ではないかという説が沸き起こり、信憑性を強めてい
る。直義は頼朝より1世紀半ほど後の時代の人物だ。
高野山成慶院にある武田信玄像は畠山義続だという説がある。郷土史家によれば、
「20年前に生まれた説で、年々信じる人が増えている」そうだ。また、足利尊氏の肖
像画は彼の執事だった高師直を描いたものといわれる。
(続く)
(日刊ゲンダイ2011年6月22日掲載)
http://news.www.infoseek.co.jp/gendainet/society/story/25gendainet000148143/
15
名前:
名無しさん
2011/10/25 20:53
ID:IzNkPQpL
2011/10/25(火) 01:18:23.88 ID:???0
中国の古都・西安で見つかった墓誌(故人の事績を刻んで墓に収めた石板)に、
「日本」との文字があることを紹介する論文が中国で発表された。墓誌は678年の
作と考えられるとしている。日本と名乗るようになったのはいつからなのかは古代史の
大きななぞ。大宝律令(701年)からとの見方が有力だったが、墓誌が本物なら
さらにさかのぼることになる。
中国の墓誌を研究する明治大の気賀沢保規教授(中国史)によると、論文は
吉林大古籍研究所の王連竜氏が学術雑誌「社会科学戦線」7月号に発表した。
祢軍(でいぐん)という百済(くだら)人の軍人の墓誌で1辺59センチの正方形。
884文字あり、678年2月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。
百済を救うために日本は朝鮮半島に出兵したが、663年に白村江(はくそんこう)の
戦いで唐・新羅(しらぎ)連合軍に敗れる。その後の状況を墓誌は「日本餘●(●は
口へんに焦) 拠扶桑以逋誅」と記述。「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に
閉じこもり、罰を逃れている」という意味で、そうした状況を打開するため百済の
将軍だった祢軍が日本に派遣されたと記していると気賀沢教授は説明する。
http://www.asahi.com/culture/update/1022/TKY201110220586.html
上の方に「日本」の文字が見える。「最古の日本」の可能性が高い
=「社会科学戦線」7月号、王連竜氏の論文「百済人祢軍墓誌考論」から
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