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【馬子】聖徳太子邸宅あと?発見【明日香村】
1 名前:名無しさん 2004/03/12 16:37 ID:nqf9xfrC
「島大臣」蘇我馬子の邸宅跡か 奈良・明日香村島庄遺跡

柱跡に白線が引かれた島庄遺跡の大型建物跡(手前)。ここを邸宅に使ったとみられる蘇我馬子の墓が右奥に見える石舞台古墳
柱跡に白線が引かれた島庄遺跡の大型建物跡(手前)。ここを邸宅に使ったとみられる蘇我馬子の墓が右奥に見える石舞台古墳=奈良県明日香村で、本社ヘリから

蘇我馬子が住んだ邸宅とみられる大型建物跡群
蘇我馬子が住んだ邸宅とみられる大型建物跡群=奈良県明日香村で

 蘇我馬子(そがの・うまこ)の墓とされる奈良県明日香村の石舞台古墳の西隣にある島庄(しまの・しょう)遺跡で、飛鳥時代の大型建物跡群が見つかったと11日、同村教委が発表した。7世紀前期、中期、後期の三つの時代の建物跡があり、このうち前期の建物跡が、その規模から日本書紀に度々登場する馬子の邸宅跡の可能性が高いという。30年来の調査で馬子ゆかりの人工池「勾(まがり)の池」跡が近くで見つかっており、その池との配置が「馬子邸宅説」の根拠になった。

 県立橿原考古学研究所の調査を引き継ぎ、明日香村が文化財の保存・活用を目的に昨年11月から3年計画で調査に着手した。

 島庄遺跡は飛鳥川沿いにあり、今回の調査地約500平方メートルは小学校の跡地。大小9棟以上の掘っ立て柱建物跡が重なって出土した。

 このうち最大の建物跡は柱の直径が約40センチ、縦に4本、横に6本以上が2.4メートル間隔で並び、床面積は94平方メートル以上ある。建物の並びが、72年に出土した北約40メートルにある勾の池跡(1辺約40メートルの方形)と平行とわかった。

 日本書紀は、626年に亡くなった馬子を「飛鳥川のほとりに家を建て、庭に小さな島のある池を造る。人々は島大臣と呼んだ」と紹介する。研究者らは「島のある池」は勾の池で、今回の大型建物跡は、出土した土器などから7世紀前期の馬子邸との見方を強める。

 また、調査区域にある7世紀後期の3棟の建物跡は、日本書紀に登場する天武天皇の皇太子・草壁皇子が住んだ離宮「島宮(しまのみや)」の可能性が高い。南北4.5メートル、東西12メートル以上の大きさで、672年に天武天皇が造営した飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)の宮殿跡(飛鳥京跡)と平行な並びだった。

 研究者は、大化改新(645年)で滅亡した蘇我氏の邸宅跡に、中大兄皇子(天智天皇)やその弟の天武天皇が新たに離宮を築き、草壁皇子も使ったと推測している。

 現地説明会は13日午前10時から午後3時まで(小雨決行)。

     ◇

<和田萃(あつむ)・京都教育大教授(古代史)の話> 7世紀前期の建物は当時の宮殿に匹敵する規模で、馬子の権力の強大さを示す邸宅とみていいだろう。馬子邸は大化改新で王宮領として没収される。それが草壁皇子の島宮となり、今回見つかった7世紀後期の建物跡がこれにあたる。日本書紀に登場する島宮の記述とも年代が合致しており、間違いないだろう。

     ◇

<蘇我馬子(?〜626)> 敏達、用明、崇峻、推古の4代の朝廷で最高位の大臣(おおおみ)を54年にわたりつとめ、権勢をふるった。仏教の興隆に熱心で、排仏派のライバル物部氏を破り、日本最初の寺院、飛鳥寺を建立した。自ら擁立した崇峻天皇を暗殺して推古天皇を推すなど政権に深く介在。娘を聖徳太子(574〜622)の妃にするなど晩年まで権力を保った。没後、息子の蝦夷(えみし)も大臣になったが、孫の入鹿が大化改新で中大兄皇子らに殺され、蘇我氏は滅んだ。
(03/11 22:09)
http://www.asahi.com/culture/update/0311/012.html


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