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遣唐留学生の墓誌発見「姓は井、あざなは真成」
1 名前:名無しさん 2004/10/11 09:45 ID:H7Nt6aGy
遣唐留学生の墓誌発見 中国・西安 皇帝、英才の早世を悼む
 【北京=福島香織】国営新華社通信によると、かつて唐(六一八−九〇七年)の都・長安があった中国陜西省西安市で、遣唐使として阿倍仲麻呂らとともに唐に渡った日本人の功績を記す墓誌が確認された。西安市にある西北大学が十日、発表した。中国で古代日本人の墓誌が見つかったのは初めてで、「日本」の国号が記された最古の例となる。当時の日中文化交流史を解明する一級史料といえる。
 墓誌は約四十センチ四方の石碑で、百七十一字十二行の篆書(てんしょ)で刻まれている。西北大学博物館の収蔵品にあった。一部の文字は判読できないが「姓は井、あざな(名)は真成。国号日本」とはっきり読み取れ、開元二二(七三四)年正月に三十六歳で死去したとある。礼儀正しさは比類なく、たゆまず勉学に励んだ努力家であったとたたえられている。ときの玄宗皇帝は、英才の早世を悼み「尚衣奉御(しょういほうぎょ)(皇帝の衣を管理する官位)を贈った」とも記されている。
 遣唐使とは日本が唐の先進文化や国際情勢摂取のため六三〇年から八九四年に菅原道真が廃止を上奏するまで続いた公式使節団で、国費留学生・留学僧もその一員だった。留学生では長安に残った阿倍仲麻呂のほか吉備真備、僧の空海や玄●らが知られる。井真成の名は日本側文献では確認されていない。死亡年からみて真備や玄●らの乗る帰国船出立直前の無念の死であったようだ。
◇池田温創価大文学部教授(中国古代史)の話 「中国では唐時代の墓誌が五千点以上見つかっているが、日本という言葉が登場するのは極めて異例。中国で一般に見つかる墓誌と異なり、生前の官位などが書かれておらず物足りなさが残る。墓誌の発掘が進んでおり、今後も日本人の墓誌の発見の可能性はあるだろう」
●=日へんに方
(産経新聞) - 10月11日2時56分更新


2 名前:名無しさん 2004/10/11 11:29 ID:H7Nt6aGy
2004年10月10日(日)


唐の都、もう一人の仲麻呂がいた? 墓誌発見の日本人


 奈良時代、唐の都・長安(現・西安)に渡り活躍した一人の日本人の存在が浮かび上がった。中国の西安で発見された墓誌には、留学生として中国に渡り、懸命に学びながら36歳で亡くなった「井真成」の人生が記されていた。1200年以上前の、日中交流を物語る前例のない発見。阿倍仲麻呂と同じ遣唐使船に乗り合わせたとみられるが、日本では記録は見つかっていない。どんな人物だったのか、「もう一人の仲麻呂」像を描いてみると……。

 最大の手掛かりは「井」という中国姓だ。

 鈴木靖民・国学院大教授(日本古代史)は、井を日本名の痕跡と考え、井上忌寸(いみき)という一族に注目する。現在の大阪府藤井寺市一帯を本拠とした渡来系の一族。遣唐使など外交官の任務につくものが多く出ているという。

 「遣唐使に参加できるのは、特に優秀か、特別なコネがある、限られた人物。高級官僚になるための試験・科挙にも合格したかもしれない。そのためには何より語学力が必要だった」として、「一族きっての秀才で井上真成という名前の若者だったのではないか」考える。

 東野治之・奈良大教授(日本古代史)は渡来系の氏族、「葛井(ふじい)氏」の出身ではないかと考える。葛井寺(藤井寺市藤井寺)の創建にかかわった河内の貴族で、飛鳥から奈良時代にかけて、遣唐使などを多く出した。「ふじいのまなり――という名前だったのでは」と推定する。

 「皇帝が死を惜しんで官位を追贈したという。こうした厚遇を受けるのは非常に異例のことだ。よほど優秀な留学生だったのだろう」とみる。

 贈られた役職は「尚衣奉御」。石見清裕・早稲田大助教授(中国史)によると、殿中省尚衣局の責任者だという。殿中省は王宮内の管理が業務で、尚衣局は皇帝の衣服関係を担当。奉御はその責任者で2人いた。部下は20人程度で、「部長」的な役回りだったようだ。

 当時の長安は人口100万人の世界一の国際都市。行政や法律の仕組みなどを学ぶために渡った日本の留学生は、いつ来るかわからない次の遣唐使を待ちながら、勉学、職務に励んだ。実際には次に遣唐使が日本を出発したのは、733年。懸命に学び知識を蓄えた井真成は734年の1月に死亡した。最初の一隻が唐からの帰国の途についたのはその年の秋。故郷に錦を飾るのを目前にした死だったようだ。墓誌には「無念だったろう」との思いが漂っている。

   ◇

〈阿倍仲麻呂とは〉墓誌の人物とともに留学生として唐に渡った阿倍仲麻呂は玄宗皇帝にその才能を認められ、朝衡(ちょうこう)などと名を変えて唐王朝の要職を担った。一度は帰国の途に就いたが船が難破して安南(現在のベトナム)に漂着。再び長安に戻り、安南節度使などを歴任して770年に中国で亡くなった。その名は「続日本紀」などに見える。李白や王維ら一級の文化人とも交遊し、彼らの惜別や哀悼の詩にもうたわれている。「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」という歌でも知られる。
http://news.goo.ne.jp/news/asahi/shakai/20041010/K0010200707013.html


3 名前:名無しさん 2004/10/11 11:56 ID:H7Nt6aGy
2004年10月10日(日)
中国・西安で遣唐使の墓誌発見 皇帝に仕えた日本人判明
 唐の都・長安のあった中国・西安で、阿倍仲麻呂らとともに遣唐使として渡りながら、現地で亡くなった日本人留学生の墓誌が見つかった。その人生や、死を惜しんだ玄宗皇帝が高官の役職を贈ったことなどが記されていた。この時代の日本人の墓誌が中国で発見されたのは初めて。古代東アジアの交流や、遣唐使の実態を伝える前例のない発見といえる。10日、中国国営新華社通信が「西安晩報」の報道として伝えた。

 西安の西北大学博物館が最近入手したもので、39.5センチ四方の石に、名前は「井真成」で「国号日本」など12行で171文字が刻まれていた。生まれつき優秀、国命で派遣され勉学に励み、宮廷で役職についたが、急病で開元22(734)年に36歳で死去、魂は故郷に帰るだろう、といったことが記されている。

 現存の実物資料としては国号「日本」が使用された最古の例となる。

 共同通信によると、西安市内の工事現場で見つかり個人が収蔵していたものを西北大の博物館員が収集した。

 当時の遣唐使は十数年に一度の不定期。年齢から、717年の遣唐使に19歳で留学生として参加したとみられる。奈良に都を移してから初の遣唐使にあたる。仲麻呂や吉備真備、僧玄●(●は日へんに方)(げんぼう)らに乗組員を加え、557人が参加した回だ。

 遣唐使の参加者は、唐で活躍した仲麻呂のほかは、日本で5位以上の官位を持つ参加者しか記録されていないため、この人物に該当する記述はなく、日本名などは分からない。

 死後に皇帝から贈られたのは「尚衣奉御」(尚衣局の責任者)という、従5品上の役職。中国の官位は1〜9品に分かれ、5品以上が皇帝の前に出ることができる殿上人だ。唐で役人として出世したほぼ同年齢の仲麻呂は、真成が死亡した年に従5品下に昇格しており、2人は似たコースを歩んでいた可能性が強い。

 墓誌には朝廷内の役職についていたことを示唆する記述はあるが、実際にどのような役職だったのかは記されていない。尚衣奉御は、皇帝の近くに仕える役職だった。

    ◇

 氣賀澤保規・明治大教授(中国史)による銘文の抄訳は以下の通り。

 「姓は井、字(あざな)は真成、国は日本と号す。生まれつき優秀で、国命で遠く唐にやってきて、一生懸命努力した。学問を修め、正式な官僚として朝廷に仕え、活躍ぶりは抜きんでていた。ところが思わぬことに、急に病気になり開元22年の1月に官舎で亡くなった。36歳だった。皇帝は大変残念に思い、特別な扱いで埋葬することにした。尚衣奉御の位を贈った。2月4日に万年県の川のほとりに埋葬した。体はこの地に埋葬されたが、魂は故郷に帰るにちがいない」

 〈町田章・奈良文化財研究所所長(考古学)の話〉 阿倍仲麻呂とともに養老元年の遣唐使で行った留学生と見て間違いないだろう。遣唐使の中でも平安に入ってからのものは比較的記録が残っているが、奈良時代の遣唐使については続日本紀などに断片的に記録が残っているだけ。留学生についても、帰ってきて政治家や高僧として成功すれば伝記や紀行文の記録が残るが、若くして向こうに渡ったとすれば日本側の資料では「その他大勢」でしかなく、名前が残らないのも当然と言える。遣唐使の歴史を解明する上で、非常に重要な発見だ。


4 名前:名無しさん 2004/10/11 12:00 ID:H7Nt6aGy
2004年10月10日(日)
遣唐使の墓誌発見…「魂は故郷へ」と異国の死刻む
 【西安(中国陝西省)=竹腰雅彦】8世紀初めに日本から中国・唐(618―907)に渡り、現地で客死した遣唐使随行の留学生の墓誌(734年)が見つかったと、西北大学(西安市)が10日、発表した。
 中国で古代の日本人の墓誌が見つかったのは初めてで、「日本」の国号が記された中国最古の例。謎に包まれている遣唐使の実像に迫る貴重な資料として注目される。

 墓誌は死者の事績を記した墓石で、発見された墓誌は高さ、幅とも約39センチのほぼ正方形。上に載せられた蓋石(ふたいし)の上面に12文字、本体に171文字が刻まれていた。

 「姓は井、字は真成。国号は日本。天賦の才能をもって、唐に渡り、勉学にいそしんだ。学問を修め、官吏として朝廷に仕えた。礼儀正しさは比類のないほどだった。しかし、開元22年(734年)正月、急病のため36歳で死去した。皇帝は死を悼み、尚衣奉御という官職を贈った。2月4日、サン水(さんすい)のほとりに埋葬した。遺体は異国の土となったが、魂は故郷へ帰る」などと記されていた。「尚衣奉御」は皇帝の衣服を管理する部署の長のこと。当時の玄宗皇帝(在位712―756年)の信頼が相当あつかったことがうかがわれ、「かなり親しい人物だったのではないか」と、調査にあたった西北大の王建新教授は推測している。

 「井真成」は中国名(唐名)で、日本側の記録にないため、該当する人物は特定されていない。阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、吉備真備(きびのまきび)などが派遣された717年の遣唐使の一員とみられる。

 墓誌の具体的な発見日時は明らかにされていないが、記述内容から、西安中心部から東に10キロほどのサン水付近に埋設されたと考えられる。(「サン水」のサンはさんずいに産)

 ◆「遣唐使船」の著書もある東野治之・奈良大学教授(日本古代史)の話「中国で亡くなった遣唐使の随員を初めて考古学的に裏付けた点で極めて重要。遣唐使が中国で、どのような待遇を受けていたかを知る上でも非常に興味深い」

 ◆遣唐使=630年の犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)を最初として、唐に派遣された使節。894年に菅原道真の建議によって廃止されるまで、20回の任命があり、うち16回が実際に渡航。唐の先進的文化がもたらされ、律令国家確立に大きな役割を果たした。派遣された主な人物は、山上憶良(やまのうえのおくら)、空海、最澄ら。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041011-00000002-san-soci


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